C社ベタストーリー第5話はこちら
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二次試験の日の東京は、台風が接近するとの予報で風が強くなりかけていた。今年は秋が早かったと思った途端、今度は急激に冷え込み、季節はすっかり秋の存在を忘れてしまったかのようだった。この調子だと火星移住への要望はますます加速するだろう。
あれから実果とは会っていない。応援メッセージを送ることもできずに、龍治はただ、C社のことだけを考えるようにしていた。そしてその日もまた、龍治はZ市へ向かう新幹線の中にいた。
肌寒いというのに、神田の作業着にはまた汗染みができていた。「額に汗して」という言葉の意味を改めて思い知らされるようだ。日の丸工業の件はサブに公表するなと充分釘を刺されていたので、まだ伝える訳にはいかない。そもそも、本当かどうかも確信できない話だ。
「今回はきちんとしたプレゼンシートを持ってきました」
御社の課題としては○○○○ということが考えられます。
まずはこの課題を○○○○という方法で解決し、
品質・納期・コストの3つの面から最適化していく必要があると考えます
「うーん、えらい細こう検討してくだはったんやなぁ」
神田は時折眼鏡を上げながら、丁寧に読んでいる。今日は最初からアキノも面談に参加し、同じ資料を捲っていた。父親と同じ作業着を着ていても、どこかセンスの良さが漂っている。
「今手にしていただいているのが、日の丸工業からの受注に備えて大量の革シートを受注した際に対応すべき点をまとめたものです。ただ…やはり、私個人の考えですが、このまま日の丸工業の受注だけに頼るより、素晴らしい技術力を持つ御社の強みをより活かせる独自の事業を少しずつ築いていく方がいいと思うんです」
何せ○○○○は他の企業にはない強みですから
アキノがはっと顔を上げる。
「僕はアキノさんの靴事業をぜひ応援したい。ただ、これまでの大量発注で同じ型のものを生産し続ける手法とは全く異なる体制が必要です」
具体的な違いとしては○○○○、
そのためには○○○○といった体制を確立しなければいけないと考えます
「今のままでは、アキノさんの理念は素晴らしくても、理想だけで倒れてしまいかねません」
何も言わなくても、アキノの情熱を瞳から感じる。左右非対称の目の形は、父親譲りのようだ。
「神田社長の事業を効率よく進めることは、日の丸工業のためだけじゃない。アキノさんの新事業のために余力を作り出すという考えで、改革を始めてみてはいかがでしょう。強い日本を作る方法は、大企業に力を貸すことだけではないはずです」
面談が終わると、日はすっかりと落ちていた。窓の外に港町の夜景が映る。神田はこの後も来客があると言い、社屋の中で丁寧に見送ってくれた。今、龍治の隣にいるのは、アキノである。ここで結構と断った龍治を押し切って、アキノは市営地下鉄の最寄り駅まで送ると聞かなかった。
「ホンマ、頼んだのが高山センセで良かったわ。お父ちゃんも、まだ見る目あるな」
「そんなこと…恐縮です」
龍治はむず痒さを笑って誤魔化した。都会的な夜の街に混じって、幾重にも並んだ日の丸工業のビルが煌々と輝いている。
「ウチね、皆が平等に普通に暮らせるようになったらええなって思うねん。障害があっても、人と違っても、同じように人生を生きられる。ゼロをプラスにする仕事よりも、マイナスをゼロにする仕事の方に、魅かれてしまうんよね。なんでやろ」
「へぇー、でもそれは僕たちの仕事にも同じことが言えるかもしれません。既に勝者になっている人たちに僕の仕事は要らない。こう言っては失礼かもしれないけど、ビハインドがある人たちに寄り添うのが僕の仕事だと思ってます」
駅に降りる階段が見え、二人の足が止まった。
「ここまでで、大丈夫です。暗い中、お見送りまでありがとうございました。神田社長にもよろしくお伝えください」
その時だ。龍治は歩道を猛スピードで走ってくる自転車を捉えた。
「危ない!」
龍治がアキノの左手首を掴んで引き寄せると、彼女は態勢を崩して龍治にもたれかかるような形になった。自転車はアキノの背後すれすれを通り過ぎ、龍治は我に返って手を離した。少し身体が離れると、アキノと目が合う。どこか不安定さを感じるのは、この左右非対称の目が原因なのだろうか。二人の間に奇妙な沈黙が流れる。
ガサッ。
近くに人がいる気配を感じ、二人は同時に音がした方を見た。息を呑む。
…ニャー。
ひと鳴きを残し、斑模様の尻尾が街路樹の中に消えた。誰かが「りんー!おいでー!」と呼ぶ声がする。その声で、龍治は微睡から覚めたように感じた。
「なんだ、猫か」
帰りの新幹線の中ではつい転寝をしてしまったようだ。目が覚めたのは新横浜を知らせるアナウンスだった。危ない危ない、そう独り言ちてスマホを見る。メッセージアプリの着信は、実果からだった。
「終わったよ」
そうだ、実果は試験だったんだ。一気に目が覚め、品川駅に着くなりホームに飛び降りた。息せき切って改札を潜り抜け、人込みの中で実果に電話をする。
「もしもし?実果?試験どうだった?」
こちらも騒々しいが電話の向こうは更に騒々しいようだ。
「何?聞こえない。今ね、お疲れ様会。終わったら電話する」
「待って。今どこ?今すぐ行くから」
「え?いいよ、後でで」
「いいから!どこ!」
あまりに全速力で走ってきたため、龍治はサウナ後のように汗をかいていた。目の前に立つ実果がそれを笑う。
「笑うなよ」
「ダサすぎて笑えない」
言いながら実果はまだコロコロと笑っている。
「こないだはごめん。俺、実果の考え、何も聞かなくて」
「いいのよ。私とりょーちは別の人間。分からなくて当たり前」
年下の実果がすっかり大人に見える。着こなしたトレンチコートのせいだろうか。
「私さ、来年から海外赴任させてもらおうと思うの。もっと大きな視野でこの世界を見てみたいって思って。だから、試験、今年受からなきゃダメなんだよな。それに、火星に比べたら俄然近いでしょ、たかが地球の中だもん」
突然の告白に、龍治は戸惑う。先ほど謝罪の言葉を連ねた口は、誠意を翻すまいと、そう簡単には返す言葉を見つけてくれなかった。
「私は、逃げたり、しないから。りょーちからも、自分の夢からも。たとえ8割が負ける試合でもね」
実果は龍治の目を真っ直ぐに見つめる。その目は、直ぐにいつもの悪戯っぽい目に戻った。
「さぁ、輸送機のシートに刻まれる社名はどこでしょうか。これはりょーちと私の、代理戦争だな」
龍治は黙って頷いた。東京の夜に、朱い月が輝く。上京してから、都会の月の色が違うことが龍治にはずっと不思議だった。今日、何となくその理由が分かったような気がする。天気予報は見ていなかったが、台風は大きく反れたのだろう。少し強めの風が敗者の捨て台詞のようにまとわりつく。龍治は声を押し殺して言った。
「トレードオフってあるだろ?」
「何かを得ると何かを失ってしまうっていう、アレ?」
「結局、世の中のほとんどはトレードオフだと思うんだ。同時には得られないものばっかりで、何かを得ようとするためには、何かを手放さないといけない。でも…」
龍治は改めて夜空を見上げた。火星はどこにあるんだろう。そして僕たちがそこに降り立つのは、何年先の話だろう。昔漠然と思い描いていた未来が、すぐそこまで来ていることを感じる。そしてそれもあっという間に過去になっていくのだろう。
「逆に何かを失ったように見えても、本当は何かを得られてるんだと思う。多分、なくなるだけのものなんか、この世にはないんだよ」
「え?いきなりどうしたの?」
実果はまた笑った。少し顔に疲れが見える。そりゃそうだ。80分×4回のハードな試験をこなしてきたのだから。
「離れてたって、商売敵であったって、きっとそこにはあるのは失うものだけじゃない。だからこそ手に入れられるものもあるはずだよ」
龍治はその台詞を言おうとして止めた。今の自分には格好が良すぎる。まだまだ、人生は悟れない。その代わりのように明るく叫んだ。
「パワー!!」
二人肩を並べて家路へとつく。お互い、長い1日だった。
「次はどちらで診断ですか、先生?」
「おっと、そうだ、今週は原壊村ってとこだった。ファンタスティックなとこらしい」
「まったく、出張の連続ね」
「そのうち実果の方がそうなるよ。あ、イタリアに行くことあったら、本物のマリトッツォ食えよな。ピスタチオクリームのやつ」
「何それ。何でピスタチオなのよ」
あの夏の甘い匂いが鼻の奥に蘇る。どうやらキングは実果に獲られてしまったようだ。龍治は心から実果と、全国に存在する顔も知らない「ふぞろいな受験生たち」の合格を願った。
≪完≫
長いお付き合い、どうもありがとうございました!皆様の夢も叶いますように。