ー--本投稿は、あの地震について言及しています。ー--
私はとある期間、東北にいたことがあり、急遽無理を言ってこの日の投稿を譲ってもらった。
ふぞろい15のメンバーには申し訳ないが、私の考える、何かを学ぶことの素晴らしさについて、聞いていただけたら幸いである。
目次
ふぞろい15のメンバーと雑談してた際に、音楽の嗜好は、少年期に聞いた音楽で形成されるという話があった。
確かにそうなのだろう。
少年期の体験、少年期に考えたこと、少年期に浴びせられた言葉。
それが、思い出せないほどの昔になったとしても、その原点はきっと残り続ける。
そしてふと思い出す。
あの日の料理、あの日の言葉、あの日の音楽。
それが、私にとっては、この日の地震だっただけ。 おそらく、社会人になっても、診断士として勉強していることの原点は11年前のこの日だと思う。
少年というものは、バカなもので、知識で理解していたとしても、その知識が骨身にしみて理解しているとは限らない。
例えば、人はいつか死ぬという事。私は当時高校生だった。それを理解していたが、それは何十年後も先であると信じて疑わなかった。
11年前のこの日まで。
老いも若きも、男も女も何もかも飲み込んでいった濁流。私は当時テレビでしかその瞬間を見ていなかった。だがそれで充分だった。 今の私は、きっと運よく死ななかっただけなんだと。
物語なら、私のセリフを教訓として本は閉じられるのだろう。だから、命を大切にしましょう。隣人を愛せよと。
でも、問題はいつだって現実にある。
本を閉じても、現実は改善しない。
波打ち際の残骸は消えてなくなるわけではない。
死んでいった者たちの命は蘇らない。
打ちのめされた経済は、何もしなければ焦土になる。
私はそれが嫌だった。
生きているのに、何もしないことが。
流された同年代に恥じないために。
だから私は、今も何かを学び続けている。
何かを学ぶこと。
色々な理由をもって、色々な学問を学んでいる。
そんな人が大勢いると思う。
受験のため、スキルアップ、転職、
あるいは独立。
あるいは副業。
あるいは自己実現。
どんな学びであれ、そこに共通しているのは、現実を変えたいという意識だと私は思う。
私の場合、それが診断士だった。経営に関する基本知識だけでなく、中小企業診断士を勉強しなければ、中小企業白書を知らなかっただろうし、中小企業の数の多さ、中小企業から見た日本の現状とかも知ることがなかった。
当然、中小企業の数や白書はネットで検索すれば、即座にヒットする。この文字を読んでいる端末を使って、3秒で調べがつく。だけど、経営の基本と組み合わせて物事を考えられるようになるのは、診断士の試験勉強が一番効率がいいのではないのかなと思う。
●スーパーのお肉売り場の所で、お肉のタレとキノコを少しだけ置いている理由
● 百貨店の物産市で、購入するとき必ず百貨店の人が支払い対応をする理由
●お洋服屋さんが、古着回収サービスを始めた理由
身の回りで起きる事について、なんとなく現状を受け入れるのではなく、論理的に理由を理解できるようになれると思う。原因を理解できれば、応用が利くようになり、何かがあったときにそれを再利用できると私は思う。
たぶんそれは、大規模なショーだけではなく、もっと身近なことでもきっと。
主観が混じって大変恐縮ではあるが、診断士を勉強しようか迷っている方がいらっしゃるのでしたら、ぜひ勉強して頂けたらと思う。
私にとって、この日は正月とはまた別の一年の節目になっている。震災の二文字は世界史に深々と刻まれるだけでなくて。
あの日から聞く音楽も、食べる料理も、語られる言葉が変わってしまっても、きっと。
生者は、死者よりも幸福になる義務がある。
亡くなられた人に永久の安らぎがあらんことを。
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次回はがきがお送りします。