その野望が露と消えてしまう、というのでなければ。

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ブログをご覧の皆様、こんにちは。

「配られたカードで勝負するっきゃないのさ」ストレート合格ナビゲーターちーたーです。

 

時期的にちょっと前になりますが、合格発表がされてしまいましたね。
今回、私は結果が思わしくなかった方向けにブログを書こうと思います。

「お前に何がわかるんだ」と言われてしまえばそれまでなのですが、人間、生きていれば挫折の1つや2つ、経験していると思います。

私は日頃から劣等感を感じて生きている方ですし、割とヘマだのミスだのすることも多いです。
それを真摯に受け止め、適切な対策を取り、改善して次に活かす、というのが社会人の正しい在り方なのでしょうが、四六時中、そんな風ではいられないですよね。
落ち込むのは無益とわかっていても、落ち込んで何もかも嫌になってしまうことだってあります。

そういうとき、私はいつも次の言葉を思い浮かべて気持ちを楽にしています。

「そういうものだ、それがどうした」と。

これは村上春樹氏の「村上朝日堂 はいほー!」というエッセイ集で紹介される言葉です。
一部、以下に引用します。

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<そういうものだ>と<それがどうした>という言葉は人生における(とくに中年以降の人生における)二大キー・ワードである。経験的に言って、このふたつの言葉さえ頭にしっかりと刻みこんでおけば、たいていの人生の局面を大過なくやりすごせてしまう。

たとえばせっかく駅のフォームの階段を駆けのぼったのに、間一髪で電車のドアが閉まってしまったりすると、ものすごく腹が立つものであるが、このようなときは<そういうものだ>と思えばいい。つまり電車のドアというものはたいてい目の前で閉まっちゃうものだと認識し、納得すればいいのである。そう思えばべつに腹も立たない。世界がその原則に従って然るべき方向に流れているだけの話である。

しかしその電車に乗り遅れたおかげで待ち合わせの時間に遅れることだってある。そういう場合には<それがどうした>と自分に向かって言い聞かせる。時間なんてたかが便宜的な区分じゃないか、待ち合わせに二十分やそこら遅れたって、そんなことは米ソの核軍拡競争や神の死に比べたらなんていうことないじゃないか、と思う。これが<それがどうした>の精神である。

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もちろん、しっかり注意喚起もされております。

 

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ただしこういう考え方に基づいて生きていると、気楽に生きていくことはできるけれど、人間的にはまず向上しない。社会的責任感やリーダーシップなんかとはまず縁がなくなってしまう。そのうちに核戦争が起こっても、神が死んでも、<そういうものだ><それがどうした>と考えてしまうようになって────僕にもいささかそういう傾向があるけれど────それはそれで困ったことになってしまう。物事にはほどほどというのが必要である。

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私の場合、人間的向上なんて言葉を聞くとついつい布団に潜り込んでしまう方なので、依存症気味にこの言葉を多用しています。しかし、さすがにそれはオススメできないので、診断士を目指そうとする熱い思いをお持ちの方々に置かれましては、用法、用量を守って正しくお使い頂ければと思います。ちょっとした痛み止めみたいなもんですね。傷が癒えたら、また戦いを挑めばいいでしょう。

繰り返しになりますが、ストレートか多年度かなんて、本当にどうでもいい話です。あなたが大きな野望をお持ちで、そのために診断士資格が絶対に必要で、今、このタイミングで合格しなければその野望が露と消えてしまう、というのでなければ。

 

さて次回は、まったりゆっくり独学派★多年度生合格ナビゲーターのかずさ の登場です。
次回、かずさのインテリジェンスが炸裂します!乞うご期待!

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